大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

龍泉院 井川一揆と安倍大蔵の菩提寺

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龍泉院 JR静岡駅から井川線バス2時間30分、井川小学校前下車、徒歩約3分

竜泉院・安倍大蔵善提寺永禄(1558-69)のころ、井川の殿様〔安倍大蔵尉元真(もとざね)〕は、今川家に仕えていた。ところが永禄12年(1659)、武田信玄によって駿河が攻められると今川氏真〔今川家10代〕は敗れて掛川に退いた。今川家臣の岡部正綱兄弟と安倍元真、息弥一郎信勝等が籠って防戦した。流石の信玄もその武勇に感心して、臨済寺の鉄山和尚を仲介者として講和した。岡部は武田家臣となったが、安倍親子は井川に引きあげた。
 武田は井川の田代・小河内の郷民に安倍を討ち取るよう命じ、郷民は一揆を企て安倍氏の陣営に夜襲をかけた。安倍は一時山を下り、遠州に走って徳川の家来となった。安倍は徳川に支援され、再度井川を治めた。その後の安倍は、武田の山城や砦を落とし、その功績によって家康から「有度郡八幡村・中田村・宮竹村・益津郡焼津村・田尻村・矢久次村・志太郡梅地村・安倍郡井川七ヶ村・遠江国千頭・利果・大間・鷺坂村」を賜わり、この地方生え抜きの豪族として活躍した。安倍大蔵は駿府城下町に屋敷を与えられた、それが現在もある「安倍町」の町名の由来である。

安倍家

安倍の家督を弥一郎信勝が継ぎ、徳川に属し家康の関東討入りに従って、武州岡部に移り、知行5300石を賜る。信勝の家督は信盛が継ぎ、慶安2(1649)には大阪城代を勤め、一万石の加増により大名となる。

海野家

家康の関東移封に際しては、井川に留まった海野弥平衛本定が継ぎ、井川金山奉行や安倍山の材木の御用、刎橋(はねばし)の建設などに従事した。特に家康の御用茶についてはその全般について采配を振るい、駿府城にも登り御用を務め、お茶小屋の警備などに従事した。海野弥平衛本定の次男兵左衛門は、父と共に大御所家康に仕え、彼は駿府城内で茶人宗圓と共に茶道に従事した茶心のある武人として徳川頼宣に従い紀州徳川家に仕え、子孫は勘定奉行などを拝命した。
 海野屋敷には武器弾薬を秘かに収め置き、駿府に何か起こった場合の特別の要害地としていたという。〔駿河巡見本集〕

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