大御所・家康公史跡めぐり
宮ケ崎と報土寺
報土寺 | 葵区宮ケ崎110、安倍線バス6分、八千代町下車すぐ |
宮ヶ崎は慶長9年〔1604〕までは浅間神領であったが、家康公によって駿府城下町が出来ると浅間神社門前町として栄えた。地内の報土寺は家康公の命で、天正年間に現在の地に手越から移されたという。家康公が大御所として駿府城に入ると、慶長18年〔1613〕8月15日に父広忠公の五十年忌の法要を報土寺で営んだ。法要の導師は江戸増上寺の観(かん)智(ち)国師であり、法要の帰り家康公は近くに住んでいた天海僧正の寺〔惣持院のことか?〕を訪れている〔『駿府政事録』〕。天海僧正は分かっているだけでも、浅間神社周辺に二箇所の寺〔惣持院(そうじいん)・玄(げん)陽院(よういん)〕を持っていたことが知られている。
瓦屋小路(かわらやこうじ)
宮ケ崎地内の報土寺の近くには、家康公の蹴鞠(けまり)の相手であった安田三右衛門〔京都幾田神社神官〕が居住していた。家康公の要請で度々駿府城に来ていた。その人物のために家康公は、火災を心配する老人のために火に強い土蔵造りの家を建てて与えたという。当時としては珍しい瓦葺であったため、その家に面する道を瓦屋小路と呼んでいた。
きらず飯と滝佐右衛門
宮ヶ崎には、山田長政と関係していた滝(たき)佐(さ)右(う)衛門(えもん)と名乗る貿易商人がいた。この家も報土寺の檀家で、寺の近くの大きな家に住んでいた。ある日のこと、この家に家康公が立ち寄ると、丁度昼飯時で家族が真っ白なご飯を食べていたのを見つけ、「町人の分際で白米を喰うとは何たること」と家康公は機嫌が悪かったという。そこで滝佐右衛門は、「これは米の飯ではありません。おからでございます」と咄嗟(とっさ)に嘘をついた。
大御所様をだました自責の念にかられた滝佐右衛門は、以後死ぬまで白米は決して食べなかったというという。