大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

お茶壺屋敷

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お茶壺屋敷

お茶壺屋敷跡井川大日峠には、大御所徳川家康に献上するためのお茶を保存するお茶壺屋敷があった。
山間僻地の山奥に貯蔵された理由は、冷蔵庫のない時代に自然の冷蔵庫として標高千メートルを越えるこの大日峠が最適であったため、ここには駿府周辺の良質な茶〔足久保茶〕を保存し、秋の彼岸頃には御茶道師宗圓の手によって、茶壷が駿府代官所に運ばれた。俗にこの行事を駿府のお茶壷道中と呼んでいる。
 お茶壷屋敷には天下の名茶壷が集められ保存されていたため、お茶もさる事ながら茶壷 お茶壺屋敷(復元)
そのものが大変高価なものだったことからも、井川の殿様と呼ばれた海野弥平元定と玉川
柿島の朝倉六兵衛在重がその任にあたった。お茶壷屋敷は正徳年間〔1711~15〕に廃止されるまで百年間あまりの間将軍の御用茶として愛飲されていたという。
 保存された茶壷そのものが貴重で、壺一つで天下が動いたという逸品もあった。そんな
中に、「山口・大般若・志賀・捨子・金森・一文字・玉虫・楊柳・清香」などがお茶壺屋敷
で保存されていた〔慶長七年(1602)御茶詰候御壷渡申目録〕。このため警護に当たっていた
 井川の殿様海野弥平元定や柿島の朝倉六兵衛在重らの管理は事の外重大な責任があった。〔駿河巡見本集〕

井川笹山金山と翅橋(はねばし)

井川の笹山金山の採掘は、今川時代の享禄年間(1528~31)の頃からという。この金山は今川氏親の時代に採金が高まった。優秀な金堀人足としての土木技術集団は、今川氏の戦闘集団に組み込まれており、合戦の折には敵の城を攻略するための得意な土木技術を駆使していた。例えば敵の井戸の水を破壊する行為などをしていたことが、著名な今川氏親の連歌師宗長の「宗長日記」に登場するほどである。
徳川家康の駿府大御所時代には、徳川幕府の組織的産金のため梅ケ島金山同様に最盛期
に入って賑わっていた。ここには数百人の採鉱者や役人が駐在し、採掘人夫も身分が高く佐渡金山の人夫のような惨めな姿はここには無かったという。このため宿舎では、人里離れた山間僻地のため慰安のための女郎や芸妓置屋もあって、夜になると三味線の音も聞こえ「三味屋敷」があったという。こうした金山の繁栄から、井川だけは刎橋と呼ばれた架橋が許され官費で架橋〔明治9年(1876)まであった〕されていた。このため大井川に橋が架けられていなかったという定説は井川では当てはまらない。
これら井川金山の遺跡も、一部を残しその多くが昭和32年(1957)の井川ダム建設によって水中に没した。

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