大御所・家康公史跡めぐり
駿府御薬園跡
駿府御薬園跡の碑 | 葵区安東一丁目22-3、静清信用金庫安東支店前 |
駿府御薬園は県立静岡高校の前、つまり長谷の国分寺と呼ばれる寺と並んであったことから、安東御薬園と呼ばれていたことが「日本薬園史の研究」〔清水中央図書館徳川文庫蔵〕に記されている。明治期の調査によると、薬園の面積は四千二百坪以上あり、北側には薬園の鎮守が祀られていた。
薬園入口は、周辺、熊笹が繁茂してその前に小川が流れていた。長谷通り側には、薬園入口の門があり、薬園番人小屋と西南の隅には薬園方詰め所があったという。現在は全て取り外され、静清信用金庫の前に駿府薬園跡の標識があるだけである。現在の国分寺も、薬園の地境にあったと言われている。
駿府薬園の起源は、家康公が駿府城御在城の時、御持木材として御樹守五郎左衛門に管理させていたという。ところが寛永年間(1624-43)に廃絶したが、享保11年(1726)に種々の薬草木を栽培し、駿府御武具奉行が管理した〔同書〕。「なこりその記」によると、安政4年(1857)までは老中が交代でこの薬園を守り数多くの薬草が繁茂していたことがわかる。しばしば幕府の採薬使が訪れ、散見していた薬草を取っては幕府に献上していたという(『日本薬園史の研究』清水中央図書館蔵)。ここの薬草が、江戸の小石川薬園などにも分けられていたという。