大御所・家康公史跡めぐり
用宗城〔持舟城〕
用宗城〔持舟城〕 | 駿河区用宗城山町(JR用宗駅裏山)、JR用宗駅下車徒歩約10分 |
通称城山(しろやま)と呼ばれるこの山城〔標高75.5㍍〕は、今川氏水軍の城として関口氏(うじ)広(ひろ)が守ったが築城年代は不詳である。駿府の西南部の大崩や日本坂道を押さえる重要拠点にある。ところが永禄11年(1568)甲斐の武田信玄に敗北した今川氏は、この城を手放し武田が領有すると、武田家臣の三浦兵部義鏡や向井正重(まさしげ)が守った。天正7年〔1579〕の武田氏と家康公の持舟城での戦闘では、多大な犠牲を払いながらその日のうちに武田の守備するこの山城は徳川側の兵によって落城したという。この戦いで四百人余りが戦死した。
家康公が代わってこの山城を支配したが、再び武田側が取り戻し武田勝頼は朝比奈駿河守氏秀を配置して再起した。ところが天正10年(1582)には、再び家康公の攻撃を受けて講和を結び、氏秀は久能山城に退去しこの城は廃城となった。
現在でも見晴らしの良い城山として市民に親しまれているが、周囲の地形は大きく変貌している。戦国時代には城の前面まで海が接し、現在の用宗漁港付近は深い入江を形成し、天然の良港として持舟城に守られた要害であった。このことが国立公文書館内閣文庫の『駿河国有渡郡用宗古城図』に見ることができる。
マリア観音と今川水軍の経緯
持舟城の本丸山頂〔通称城山と呼んでいる〕に観音堂がある。その観音堂には、石に刻まれた観音像があり、地元の人々はマリア観音と呼んで懇ろにお祭りした。マリア観音と呼ばれる所以(ゆえん)、それは持舟城主であった向井伊賀守正重の弟の正興(まさおき)が、美しいキリシタンの娘に恋し彼女を妻に迎えた。その妻をモデルにしたことから、マリア観音と呼ばれたという伝承が伝えられている。現在このマリア観音は、山の下にある曹洞宗大雲寺に祀られている。
向井正綱〔1557-1626〕と忠勝
向井正重の子正綱は伊勢国の海賊〔水軍〕で、今川義元や武田信玄の水軍として仕え、駿河国の持舟城主として水軍の一翼を担っていた。武田家滅亡後は家康公に仕え、豊臣秀吉の小田原攻めに家康公は向井水軍を率いて参陣した。向井氏は目覚しい活躍によって、水軍の手薄な徳川家康公の船奉行となって出世した人物でもあった。関が原の合戦では、海が荒れていたため遅参したが、江戸湾の警備には息子の向井忠勝とともに徳川水軍御船手奉行として活躍した。
息子忠勝は、幕府史上最大の安宅船〔御座船安宅丸〕造船を指揮し、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船〔サン・ファン・デ・バプティスタ号〕の造船に協力、ウイリアム・アダムズと共に仙台の石巻まで出掛け指導したという。忠勝は相模国三浦郡三崎宝蔵山の屋敷地と、江戸八丁堀霊巌島にも江戸屋敷を拝領した。ここは「将監番所」と呼ばれ、江戸出入りの船舶を監視した海の関所の役割を担って「将監河岸」の正式地名として残されていた。