大御所・家康公史跡めぐり
清見寺
清見寺 | 清水区興津清見寺町418、JR興津駅から徒歩約10分 |
興津の由緒ある清見寺と家康公の由緒は沢山ある。この寺の歴史は古く、聖一国師を招いて寺の落慶式が行われた時点までの歴史は遡れる。ところがそれ以前は確証に乏しい。家康公が今川義元の人質時代、家康公の師匠であった臨済寺〔葵区大岩〕の雪斎和尚が荒廃していた寺を再興したという。こうした関係から、寺の本堂の裏には家康公手習の間が残されている。
清見寺の臥竜梅
家康公は清見寺が好きだったようで、駿府大御所時代によく訪問した。寺の庭で能の会を催したり、住職の大輝和尚と話し合ったりしていたため寺の裏庭〔国の特別名勝庭園〕も憩いの場として活用したという。こうした経緯から、駿府城の庭の亀石・虎石・牛石やお手接ぎの柿・臥竜梅・柏・蜜柑などが境内にあり、「五木三石の庭」として著名である。
朝鮮通信使と清見寺
家康公は慶長12年〔1607〕、豊臣秀吉の朝鮮侵略で冷え切っていた朝鮮国と日本の国交を正常化するため、呂祐吉〔ノコンギル〕を正使とする467名の朝鮮使節団の来日を駿府城で実現させた。この難題に取組んだのが、家康公の命を受けて外交努力をしたのが対馬の宋氏であった。こうして朝鮮国とは九年の歳月を経て国交が回復した。
「通信使」とは、お互いに「信を通わす」意味で、両国関係の樹立を駿府大御所家康公が実現したものであり、歴史的に高く評価されている。その大切な使節の宿舎〔興津宿が未整備のため清見寺に宿泊〕として選ばれたのが清見寺であり、江戸の帰路にここに宿泊し御座船で三保湾遊覧をし、文人墨客と筆談で高度な文化交流が清見寺で行われた。
通信使の記録した『海槎録』には、美しい清見村に投宿した様子を「あたかも仙境のようであった」と記し、また海上に1艘の南蛮船が停泊していた様子を「その構造ははなはだ巧妙で、また極めて宏壮であった・・」と記している。
閑話休題
興津鯛〔おきつタイ〕と家康公の死因
家康公は大御所時代に、よく鷹狩りに各地に出かけた。元和2年(1616)正月21日、鷹狩りで藤枝の田中城に立ち寄った時、京都で「てんぷら」が流行していたことを耳にして早速そのてんぷらを食べた。するとその日の夜から腹が痛み出して重態となったが、24日には少し回復したため駿府城に戻った。
この時に食べたてんぷらが、江戸時代の名物の一つ興津鯛だったという。興津鯛の名前は、実は「興津の方」とよばれた大奥の女中が、キアマダイを家康公の食前に供したことから「興津タイ」の名がついたという説もある〔ふるさと静岡ミニガイド〕。家康公の本当の死因は、現在の医師の想像によると胃がんではなかったかという説が有力視されている。